今朝の放送内容 3月21日(火)
2023年3月21日(火)
今朝の放送内容
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●「袴田事件」検察側が特別抗告を断念 再審開始が確定へ
●中国・習主席がロシア訪問 プーチン大統領と非公式会談
●日印首脳会談 岸田総理がモディ首相をG7サミットに招待
●地下鉄サリン事件からきのうで28年 遺族らが献花
●中央区の貴金属買取販売店で時計窃盗 男子高校生2人逮捕
●函館市1億5千万円詐欺事件 指示役の男を新たに逮捕
●道内感染者80人 全国2617人
●菅前総理「出産費用を保険適用に」 妊婦の健診費用なども国が支援すべき
●自民・茂木幹事長 小中学校の給食費無償化を提言へ
●札幌市市民防災センターがリニューアル
●WBC侍ジャパン 準決勝メキシコ戦 このあと午前8時から
先発の佐々木朗希投手「ベストを尽くしたい」
準決勝・アメリカがキューバを14-2で下し決勝進出
●きのうの大相撲春場所 一山本3勝6敗 北青鵬5勝4敗
●カーリング世界選手権 日本代表ロコ・ソラーレがアメリカを下し2連勝
●サッカー日本代表第2次森保ジャパンが始動 24日ウルグアイ戦 28日コロンビア戦
●きのうの選抜高校野球 大阪桐蔭が敦賀気比を3-1で下す
●ファイターズ新庄監督 最速50勝目標掲げる きょうオープン戦先発はポンセ投手
●中国・習主席がロシア訪問 プーチン大統領と非公式会談
●日印首脳会談 岸田総理がモディ首相をG7サミットに招待
●地下鉄サリン事件からきのうで28年 遺族らが献花
●中央区の貴金属買取販売店で時計窃盗 男子高校生2人逮捕
●函館市1億5千万円詐欺事件 指示役の男を新たに逮捕
●道内感染者80人 全国2617人
●菅前総理「出産費用を保険適用に」 妊婦の健診費用なども国が支援すべき
●自民・茂木幹事長 小中学校の給食費無償化を提言へ
●札幌市市民防災センターがリニューアル
●WBC侍ジャパン 準決勝メキシコ戦 このあと午前8時から
先発の佐々木朗希投手「ベストを尽くしたい」
準決勝・アメリカがキューバを14-2で下し決勝進出
●きのうの大相撲春場所 一山本3勝6敗 北青鵬5勝4敗
●カーリング世界選手権 日本代表ロコ・ソラーレがアメリカを下し2連勝
●サッカー日本代表第2次森保ジャパンが始動 24日ウルグアイ戦 28日コロンビア戦
●きのうの選抜高校野球 大阪桐蔭が敦賀気比を3-1で下す
●ファイターズ新庄監督 最速50勝目標掲げる きょうオープン戦先発はポンセ投手
今朝の選曲
【5時台】
M「DISIRE /中森明菜」
【6時台】
M「I LOVE. . . / Official髭男dism 」
【7時台】
M「カウント・オン・ミー/ブルーノ・マーズ」
M「DISIRE /中森明菜」
【6時台】
M「I LOVE. . . / Official髭男dism 」
【7時台】
M「カウント・オン・ミー/ブルーノ・マーズ」
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今日は最強開運日!金運おじさんからプレゼントがありました!
あさミミ!アラカルト〜八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 音速の貴公子・アイルトンセナ 」
3月21日、ご存命なら63歳の誕生日という
自動車レースF1の元チャンピオン「アイルトン・セナ」さん。
本名アイルトン・セナ・ダ・シルバさんは1960年3月21日生まれ、
ブラジル出身のレーシング・ドライバー。
F1世界選手権では、1988年・1990年・1991年と、計3度のワールドチャンピオンを獲得。
これまでも多くの投票で「史上最高のF1ドライバー」
「史上最も影響力のあるF1ドライバー」に選出されています。
それだけに数々の異名もつけられていて、「Genius(天才)」「マジック・セナ」
そして、日本では、古舘伊知郎さんが名付けた「音速の貴公子」というのもあります。
セナさんのご両親は地主で工場経営者でもある資産家のお父様ミルトン・ダ・シルバさん
お母さまネイジ・セナ・ダ・シルバさんの間に生まれた三人兄弟の第二子として生まれます。
子供の頃から運動神経に優れ、体操やその他のスポーツを得意もとしていたそうです。
自動車とモータースポーツに興味を持ったのは4歳の時、
7歳の頃には、家族が所有する農場で初めてジープを運転したそうです。
初めてレースに参加することになったのが、13歳。
インテルラゴス・サーキットでレーシングカートの競技会に参加。
そのレースでセナさんは先頭から初レースをスタートし、
自分より数歳年上のライバルたちを相手にレースの大半をリードします。
ただ、最終的にライバルの1人に接触されてリタイアというのがデビューだったそうです。
それを見たお父様のミルトンさんは息子のレース活動をサポート、成長を見守り続けます。
すると17歳で参戦した南アメリカ・カート選手権を制し、
18歳の1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦、
1979年と1980年にはシリーズランキングで2位となります。
また、20歳、1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンさんと結婚。
翌年の1981年2月、セナさんはフォーミュラカーレースに参戦するため、
奥様と共にイギリス(イングランド)に渡り、
フォーミュラ・フォード1600の2つのシリーズ両方の選手権でチャンピオンとなります。
こうなると当然レースへの情熱は益々ヒートアップしますが、
一方でブラジルでの生活を強く希望した奥様とはそりが合わなくなり、離婚も経験。
1982年2月には単身で再度イギリスに渡ります。
その1982年シーズン、セナさんはフォーミュラ・フォード2000に転向、
イギリス選手権とヨーロッパ選手権でチャンピオンとなります。
このフォーミュラ・フォード2000はF1の前座として開催されることも多く、
ステップアップのきっかけとなったようです。
翌1983年シーズン、セナさんはイギリスF3選手権に参戦、
なんとシーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走。
後半戦以降はライバルに差を縮められますが、僅差でチャンピオンを獲得。
最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だったそうです。
そして、いよいよF1へのステップアップのチャンスを得たセナさんは
複数チームのマシンテストに招かれます。
この時セナさんは誰よりも速く走ることができましたが、
この頃のF1界には独特な空気もあり、なかなか所属チームが決まりません。
あるチームでは前年のチャンピオンからチーム入りに反対されたり、
あるチームからはメインスポンサーがイタリアの企業ということもあり、
チームのドライバーが2名ともブラジル人になることを毛嫌いしたことで
チーム入りできないなんてこともあったそうです。
結局複数チームとの交渉を経て、移籍したドライバーの補充的意味でトールマンと契約。
見事F1デビューが決まります。
1984年のF1デビュー年は、第2戦の南アフリカGPで6位に入り、初入賞。
その後、計3度の表彰台を経験。入賞も15戦中5レースとなりました。
新人のこの活躍を他のチームが指をくわえてみているだけはありません。
このシーズンの途中にはなんと翌年から名門チームの一つロータス移籍が発表されます。
ただ、トールマンとは3年契約を結んでいたため二重契約として問題になります。
結局、ロータスとセナさんがトールマンに違約金を支払い、
1レースの出走禁止の処分を課すことを条件に翌年からのロータス移籍は実現します。
1985年名門ロータスに移籍、F1通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得。
豪雨となった決勝でもスタートから終始トップを走行し、
2位に1分以上の差、3位以下は全て周回遅れという独走でF1初優勝を果たします。
シーズン後半には決勝レースでの結果も安定し、
年間ランキングは当時ロータスのエース「エリオ・デ・アンジェリスを」上回る4位でシーズンを終えます。
1986年ドライバーズランキングは4位。
そして1987年にはセナさんの要望でホンダエンジンの獲得に成功、
またチームメイトにホンダと縁の深いF1ルーキー・中嶋悟さんも加入。
この年のドライバーズランキングで3位に入ります。
そして、翌1988年シーズンからホンダがマクラーレンと提携しエンジン供給パートナーとなる事と、
セナさんがマクラーレンに移籍し既に2度年間チャンピオンを獲得していた、
アラン・プロストとコンビを組む事が発表されます。
1988年セナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンは開幕から連勝を重ねます。
セナさんも16戦中8勝を挙げ、そのうち13回のPPという当時のF1史上最多記録を更新する成績で、
自身初のワールド・チャンピオンを獲得しました。
1990年・1991年にも年間チャンピオンとなり名実ともに頂点を極めていたセナさんに
悲劇が起こったのは1994年でした。
6年間在籍したマクラーレンを離れ、かねてから望んでいた
ウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たしたシーズンでした。
第3戦サンマリノGPでの出来事。実はこのレース、
予選1日目、のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送されます。
そして、予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーと呼ばれる箇所で
クラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。
2つの大事故があったレースはセナさんのポールポジションから決勝スタート、
するとほどなくして、後方で事故が起きます。
そして再スタートが切られた後の7周目、超高速・左コーナー「タンブレロ」で
時速312kmでイン側を走行中に、3つ目の舗装の継ぎ目で突然不安定となり
グリップを失ったままアウト側へ、そのまま直進してコースアウト、
コース右脇のコンクリートウォールに時速210km~220kmで激突。
意識不明のままヘリコプターで病院に緊急搬送されましたが、
事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳の若さで帰らぬ人となりました。
母国ブラジルでは英雄の死に対し国葬が執り行われます。
亡骸がイタリアから母国に搬送されると、100万人以上のブラジル国民が沿道に会し、
迎えたといわれています。
そして、国葬は3日間にわたり行われ延べ推定300万人の人々が通りを埋め尽くしたと言われています。
陽気なイメージのブラジルの方々がセナさんの死を悼み静かに喪に服する姿は
彼がどれだけ国民から愛されていたのかを知るシーンした。
そして、日本でもセナさんが3度のF1ワールドチャンピオンを獲得した際に
エンジンを供給していたホンダ青山本社1階では実使用したヘルメットを
ショールームに展示し献花などお別れの場を設けられました。
ホンダではNSXという車のテストドライバーなどもつとめられたセナさん。
もし、ご存命ならどんな車の開発に携わってくれていたのでしょうか。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 音速の貴公子・アイルトンセナ 」
3月21日、ご存命なら63歳の誕生日という
自動車レースF1の元チャンピオン「アイルトン・セナ」さん。
本名アイルトン・セナ・ダ・シルバさんは1960年3月21日生まれ、
ブラジル出身のレーシング・ドライバー。
F1世界選手権では、1988年・1990年・1991年と、計3度のワールドチャンピオンを獲得。
これまでも多くの投票で「史上最高のF1ドライバー」
「史上最も影響力のあるF1ドライバー」に選出されています。
それだけに数々の異名もつけられていて、「Genius(天才)」「マジック・セナ」
そして、日本では、古舘伊知郎さんが名付けた「音速の貴公子」というのもあります。
セナさんのご両親は地主で工場経営者でもある資産家のお父様ミルトン・ダ・シルバさん
お母さまネイジ・セナ・ダ・シルバさんの間に生まれた三人兄弟の第二子として生まれます。
子供の頃から運動神経に優れ、体操やその他のスポーツを得意もとしていたそうです。
自動車とモータースポーツに興味を持ったのは4歳の時、
7歳の頃には、家族が所有する農場で初めてジープを運転したそうです。
初めてレースに参加することになったのが、13歳。
インテルラゴス・サーキットでレーシングカートの競技会に参加。
そのレースでセナさんは先頭から初レースをスタートし、
自分より数歳年上のライバルたちを相手にレースの大半をリードします。
ただ、最終的にライバルの1人に接触されてリタイアというのがデビューだったそうです。
それを見たお父様のミルトンさんは息子のレース活動をサポート、成長を見守り続けます。
すると17歳で参戦した南アメリカ・カート選手権を制し、
18歳の1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦、
1979年と1980年にはシリーズランキングで2位となります。
また、20歳、1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンさんと結婚。
翌年の1981年2月、セナさんはフォーミュラカーレースに参戦するため、
奥様と共にイギリス(イングランド)に渡り、
フォーミュラ・フォード1600の2つのシリーズ両方の選手権でチャンピオンとなります。
こうなると当然レースへの情熱は益々ヒートアップしますが、
一方でブラジルでの生活を強く希望した奥様とはそりが合わなくなり、離婚も経験。
1982年2月には単身で再度イギリスに渡ります。
その1982年シーズン、セナさんはフォーミュラ・フォード2000に転向、
イギリス選手権とヨーロッパ選手権でチャンピオンとなります。
このフォーミュラ・フォード2000はF1の前座として開催されることも多く、
ステップアップのきっかけとなったようです。
翌1983年シーズン、セナさんはイギリスF3選手権に参戦、
なんとシーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走。
後半戦以降はライバルに差を縮められますが、僅差でチャンピオンを獲得。
最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だったそうです。
そして、いよいよF1へのステップアップのチャンスを得たセナさんは
複数チームのマシンテストに招かれます。
この時セナさんは誰よりも速く走ることができましたが、
この頃のF1界には独特な空気もあり、なかなか所属チームが決まりません。
あるチームでは前年のチャンピオンからチーム入りに反対されたり、
あるチームからはメインスポンサーがイタリアの企業ということもあり、
チームのドライバーが2名ともブラジル人になることを毛嫌いしたことで
チーム入りできないなんてこともあったそうです。
結局複数チームとの交渉を経て、移籍したドライバーの補充的意味でトールマンと契約。
見事F1デビューが決まります。
1984年のF1デビュー年は、第2戦の南アフリカGPで6位に入り、初入賞。
その後、計3度の表彰台を経験。入賞も15戦中5レースとなりました。
新人のこの活躍を他のチームが指をくわえてみているだけはありません。
このシーズンの途中にはなんと翌年から名門チームの一つロータス移籍が発表されます。
ただ、トールマンとは3年契約を結んでいたため二重契約として問題になります。
結局、ロータスとセナさんがトールマンに違約金を支払い、
1レースの出走禁止の処分を課すことを条件に翌年からのロータス移籍は実現します。
1985年名門ロータスに移籍、F1通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得。
豪雨となった決勝でもスタートから終始トップを走行し、
2位に1分以上の差、3位以下は全て周回遅れという独走でF1初優勝を果たします。
シーズン後半には決勝レースでの結果も安定し、
年間ランキングは当時ロータスのエース「エリオ・デ・アンジェリスを」上回る4位でシーズンを終えます。
1986年ドライバーズランキングは4位。
そして1987年にはセナさんの要望でホンダエンジンの獲得に成功、
またチームメイトにホンダと縁の深いF1ルーキー・中嶋悟さんも加入。
この年のドライバーズランキングで3位に入ります。
そして、翌1988年シーズンからホンダがマクラーレンと提携しエンジン供給パートナーとなる事と、
セナさんがマクラーレンに移籍し既に2度年間チャンピオンを獲得していた、
アラン・プロストとコンビを組む事が発表されます。
1988年セナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンは開幕から連勝を重ねます。
セナさんも16戦中8勝を挙げ、そのうち13回のPPという当時のF1史上最多記録を更新する成績で、
自身初のワールド・チャンピオンを獲得しました。
1990年・1991年にも年間チャンピオンとなり名実ともに頂点を極めていたセナさんに
悲劇が起こったのは1994年でした。
6年間在籍したマクラーレンを離れ、かねてから望んでいた
ウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たしたシーズンでした。
第3戦サンマリノGPでの出来事。実はこのレース、
予選1日目、のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送されます。
そして、予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーと呼ばれる箇所で
クラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。
2つの大事故があったレースはセナさんのポールポジションから決勝スタート、
するとほどなくして、後方で事故が起きます。
そして再スタートが切られた後の7周目、超高速・左コーナー「タンブレロ」で
時速312kmでイン側を走行中に、3つ目の舗装の継ぎ目で突然不安定となり
グリップを失ったままアウト側へ、そのまま直進してコースアウト、
コース右脇のコンクリートウォールに時速210km~220kmで激突。
意識不明のままヘリコプターで病院に緊急搬送されましたが、
事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳の若さで帰らぬ人となりました。
母国ブラジルでは英雄の死に対し国葬が執り行われます。
亡骸がイタリアから母国に搬送されると、100万人以上のブラジル国民が沿道に会し、
迎えたといわれています。
そして、国葬は3日間にわたり行われ延べ推定300万人の人々が通りを埋め尽くしたと言われています。
陽気なイメージのブラジルの方々がセナさんの死を悼み静かに喪に服する姿は
彼がどれだけ国民から愛されていたのかを知るシーンした。
そして、日本でもセナさんが3度のF1ワールドチャンピオンを獲得した際に
エンジンを供給していたホンダ青山本社1階では実使用したヘルメットを
ショールームに展示し献花などお別れの場を設けられました。
ホンダではNSXという車のテストドライバーなどもつとめられたセナさん。
もし、ご存命ならどんな車の開発に携わってくれていたのでしょうか。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は油野純帆ANが担当
「ローカル情報発信!あぶらのチェック」
北海道生活が2年目の油野AN。179市町村のことをもっと知りたい!という
好奇心から、その週にピッタリのご当地情報を紹介する超ローカルコーナーです。
火曜日が「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
水曜日が「あさミミ☆リサーチ」
毎週ひとつのテーマを設定。皆さんからメッセージをお寄せいただくコーナーになります。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
木曜日が「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日が「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!