今朝の放送内容 6月27日(火)
2023年6月27日(火)
今朝の放送内容
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●歌舞伎俳優の市川猿之助容疑者に逮捕状 きょうにも逮捕へ
●プリゴジン氏がSNSで発信「政権転覆意図せず」 反乱を正当化
●プーチン大統領が反乱収拾後初メッセージ ロシアの団結を呼びかけ
●80代女性が住む住宅で火事 隣の家に燃え移る 上砂川町
●南区北ノ沢で週末もクマの目撃相次ぐ 「ふん」や「足跡」を発見
●女児を自宅に置き去り 35歳母親を保護責任者遺棄の疑いで逮捕 北見市
●札幌・大通休憩スペース 南側を廃止に テーブルも椅子も撤去へ
●福島第一原発の処理水を海に放出するための工事、ほぼ終了
●「緊急避妊薬」一部薬局で試験的に処方せんなしで販売へ
●台風「予報円」最大40%小さく発表へ 予報精度が大きく向上
●たまごの卸売価格 約3か月ぶりに値下がり
●きのうのメジャーリーグ
エンゼルス大谷翔平選手が今季通算61打点で再び単独2冠
●きのうのプロ野球結果
楽天・田中将大投手が日米通算194勝でダルビッシュ投手を上回る
●大相撲名古屋場所番付発表 北青鵬が東前頭6枚目
北青鵬が札幌市長訪問 名古屋場所「2桁勝ち優勝争いを」
●レバンガ B2山形のトーマス・ウェルシュ選手と来季契約
●IHアジアリーグ 釧路市「ワイルズ」から加盟申請
●サッカー三浦知良選手 来季もポルトガルでプレーへ
●ファイターズ きょうから沖縄で西武2連戦
●プリゴジン氏がSNSで発信「政権転覆意図せず」 反乱を正当化
●プーチン大統領が反乱収拾後初メッセージ ロシアの団結を呼びかけ
●80代女性が住む住宅で火事 隣の家に燃え移る 上砂川町
●南区北ノ沢で週末もクマの目撃相次ぐ 「ふん」や「足跡」を発見
●女児を自宅に置き去り 35歳母親を保護責任者遺棄の疑いで逮捕 北見市
●札幌・大通休憩スペース 南側を廃止に テーブルも椅子も撤去へ
●福島第一原発の処理水を海に放出するための工事、ほぼ終了
●「緊急避妊薬」一部薬局で試験的に処方せんなしで販売へ
●台風「予報円」最大40%小さく発表へ 予報精度が大きく向上
●たまごの卸売価格 約3か月ぶりに値下がり
●きのうのメジャーリーグ
エンゼルス大谷翔平選手が今季通算61打点で再び単独2冠
●きのうのプロ野球結果
楽天・田中将大投手が日米通算194勝でダルビッシュ投手を上回る
●大相撲名古屋場所番付発表 北青鵬が東前頭6枚目
北青鵬が札幌市長訪問 名古屋場所「2桁勝ち優勝争いを」
●レバンガ B2山形のトーマス・ウェルシュ選手と来季契約
●IHアジアリーグ 釧路市「ワイルズ」から加盟申請
●サッカー三浦知良選手 来季もポルトガルでプレーへ
●ファイターズ きょうから沖縄で西武2連戦
今朝の選曲
【6時台】
M「ほっとけないよ/楠瀬誠志郎」
【7時台】
M「渚の誓い/エア・サプライ」
M「ほっとけないよ/楠瀬誠志郎」
【7時台】
M「渚の誓い/エア・サプライ」
あさミミ!アラカルト〜八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は 「 日本を世界へと導いたハンス・オフ 」
サッカー日本代表、現在のFIFAランクは20位。
日本サッカー界で初めて外国人プロ代表監督となった方が
今日27日に76歳を迎えるハンス・オフトさん。
ハンス・オフトさん、本名マリウス・ヨハン・オフトさんは
1947年6月27日 オランダのロッテルダムにて4男1女の末っ子として誕生。
幼少から身近な遊びだったサッカーになじみ、
ちょうどそのころできたオランダプロサッカーリーグを見て
さらにサッカー熱がヒートアップしていきます。
8歳の時ローカルクラブのユースに所属し、15歳の頃にはかつて小野伸二さんも在籍した
名門フェイエノールトからスカウトの声がかかるほどでした。
この頃のポジションはセンター・フォワード。
16歳、当時は柔道ブームでサッカーか柔道か悩んでいたそうなんですが、
サッカーの実力が認められユースを飛び越しシニアチームへと送り込まれます。
そして、1964年、17歳、高校を卒業してフェイエノールトと契約。
途中19歳時に徴兵、1年半軍務に服す中でも、21歳以下の軍チームの代表に選出されるなど
実力は折り紙付き。退役後フェイエノールトでは、FWとしてプレー。
24歳頃からコーチングの勉強を始め28歳の時に怪我で引退。
引退後は指導者人生を歩み始めますが、1976年にオランダユース代表コーチに就任。
実はこの頃に日本との初めての接点を持ちます。
日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に紹介され世話をしたのがオフトさんでした。
そのつながりから、1982年当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部の
ヤマハ発動機(現在のジュビロ磐田)に2ヶ月間の短期コーチとしてオファーされ就任、
すると1部昇格と天皇杯優勝に貢献します。
更に今度は1984年に当時JSL2部のマツダSC(現在のサンフレッチェ広島)コーチに就任。
2年目の1985年にJSL1部昇格に導くと1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導くなど、
短期間で目覚ましい結果を出し続けます。
その後は母国オランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていましたが、
この時にオフトさんに近づく一人の男性がいました。
それがJリーグ初代チェアマンンの川渕三郎さんです。
日本協会の強化委員長だった川淵三郎さんは1982年、TV解説者を務めていた際に、
当時のヤマハの試合の変化に驚き、調べたところオフトさんの指導と判明します。
「日本人監督では限界がある」と分析しオファーするに至りました。
「プロ選手にはプロ監督、そして外国人。
オフトは日本の事情を分かっていたし、マッチすると思った」と1991年から交渉していました。
その理由について川淵さんは、オランダ1部ユトレヒトの強化責任者に就いていた
オフトさんを訪ねた際「90分間、隣に座って試合の説明をしてもらったら非常に分かりやすくてね。
日本人にはない分析力だった」と戦術眼に感服。
短期間で2つの2部チームを天皇杯優勝と1部昇格させた手腕を高く評価していたそうです。
ただ、この時代サッカーはもちろん、日本のスポーツ界で外国人プロ指導者が
代表監督にいなかった時代でした。
なぜ、海外から呼んだのかというと
川淵さんは「実績ある選手を説得できるのは外国人だけ」と語ります。
ここでいう「選手」とは代表の中心だったラモス瑠偉さん、カズこと三浦知良選手。
ブラジルでサッカーに命を懸けてきた2人は、川淵さんに「代表チームの待遇を上げてくれ」
と直談判していたそうです。
川淵さん曰く「そんなこと言ってくる選手は当時いなかった。
彼らを指導…というか牛耳るには、同じ日本人では無理だなと」感じたそうです。
そこで「小クラマー」と呼ぶオフトさんに決めたそうです。
このクラマーさんとは「日本サッカーの父」とも呼ばれる人物で、
1964年の東京オリンピックを勝ち抜くために呼ばれた監督です。
代表選手でさえバラバラだった「キック」の仕方を正確に行うには?というのを教えたり、
まだ代表選手でもできなかった「リフティング」を教えたり、
日本に初めて「テーピング」を持ち込んだ方で当時選手として対峙していたのが川淵さん。
「クラマーさんが(60年に)来た時、日本人とは月とスッポンだったから招くことに迷いはなかった」
と語っています。
一方で選手たちにはアレルギーが出はじめます。
「それまでのミーティングは、みんな監督ではなく大将のラモスに従っていた」と川淵さん。
そこに割って入ったオフトさんは「1人に頼るチームは危険」と、あえて表明。
反発したラモスさん、練習初日に指笛で呼ばれ「犬じゃないよ、冗談じゃないよ」と激高したり、
メディアにも公然と不満をぶちまけるなど自身のプライドを前面に出し対立します。
ただ、オフトさんも引きません。国立競技場の一室にラモスさんを呼び「もう代表に来なくて結構」
と突き放します。
川淵さん「もしもの時、ラモスを外せるとしたら外国人」と想定した通りの一触即発危機にも
「オフトはケンカもしたけど折り合いもつけた」と実際に外す気はないことを見抜き、
半年後には、オフト監督とラモス“コーチ”が2人で当時の代表FW高木琢也さんを
居残り指導する光景がありました。
そうです、当時は実績と実力のある選手がモノを言わせていた日本代表の改革に成功し、
いよいよ1994年のアメリカワールドカップに向け始動します。
1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した後は、夏にダイナスティカップ優勝、
秋のAFCアジアカップでは優勝に導き、日本国外で行われる国際的な大会で
日本サッカー界初となるビッグタイトルをもたらします。
この時の日本代表の頑張りはJリーグ開幕と相まって、
マスメディアが大きく取り上げ社会現象ともなっていきます。
そして、1993年に行われたワールドカップアメリカ大会アジア予選、グループFを首位で通過した日本。
アジア地区最終予選は、ドーハでの集中開催方式で行われます。
1次予選A〜F組を1位通過した6か国が総当たりのリーグ戦で対戦し、
上位2か国がワールドカップの出場権を得る方式。
日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分け、
第2戦のイラン戦を1-2で落としこの時点で6か国中最下位、
第3戦は、北朝鮮に3-0で快勝。
第4戦ではそれまでW杯、五輪のアジア予選で一度も勝利がなかった韓国と対戦、
三浦知良選手のゴールで1-0歴史的な勝利を収め、この時点で韓国に代わり首位に。
この段階で日本とサウジアラビアが出場圏内の1、2位に位置していましたが、
すでに敗退が確定していた北朝鮮を除く5位までの5か国いずれにも最終戦の結果次第で
本大会出場・敗退の可能性が残されていました。
日本とサウジアラビアは引き分け以上、韓国・イラク・イランは勝利が、本大会出場の最低条件であり、
どのチームにとっても予断を許さない状況で迎えた最終戦。
同日・同時刻キックオフで行われた最終戦(第5戦)3試合の組み合わせは
日本 - イラク、サウジアラビア - イラン、韓国 - 北朝鮮。
試合は開始5分に日本が早々と先制。
前半は1-0のまま終了。他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』、
このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜け。
後半に入るとイラクが55分にゴールへ流しこみ、1-1の同点。
他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、
日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となります。
ただ、日本は69分に、2-1と勝ち越しに成功!
イラクはその後も攻め続けますが点を与えません。
膠着状態のまま日本の勝利の時が近づく。
89分50秒、イラクは日本の左サイドからコーナーキックのチャンス。
このキック前に90分を経過してロスタイムに突入。
イラクがゴールし同点。
その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、
ボールがそのままタッチラインを割ったところで2-2の引き分けで試合終了。
ワールドカップ初出場まであと一歩のところで逃しました。
がっくりとうなだれる日本代表に近づきそっと慰めるオフトさん。
失意の結果となりましたが、日本代表が初めて「世界」を意識できた、
新たな世界を見せてくれた監督、それがオフトさんだということになるでしょう。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は 「 日本を世界へと導いたハンス・オフ 」
サッカー日本代表、現在のFIFAランクは20位。
日本サッカー界で初めて外国人プロ代表監督となった方が
今日27日に76歳を迎えるハンス・オフトさん。
ハンス・オフトさん、本名マリウス・ヨハン・オフトさんは
1947年6月27日 オランダのロッテルダムにて4男1女の末っ子として誕生。
幼少から身近な遊びだったサッカーになじみ、
ちょうどそのころできたオランダプロサッカーリーグを見て
さらにサッカー熱がヒートアップしていきます。
8歳の時ローカルクラブのユースに所属し、15歳の頃にはかつて小野伸二さんも在籍した
名門フェイエノールトからスカウトの声がかかるほどでした。
この頃のポジションはセンター・フォワード。
16歳、当時は柔道ブームでサッカーか柔道か悩んでいたそうなんですが、
サッカーの実力が認められユースを飛び越しシニアチームへと送り込まれます。
そして、1964年、17歳、高校を卒業してフェイエノールトと契約。
途中19歳時に徴兵、1年半軍務に服す中でも、21歳以下の軍チームの代表に選出されるなど
実力は折り紙付き。退役後フェイエノールトでは、FWとしてプレー。
24歳頃からコーチングの勉強を始め28歳の時に怪我で引退。
引退後は指導者人生を歩み始めますが、1976年にオランダユース代表コーチに就任。
実はこの頃に日本との初めての接点を持ちます。
日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に紹介され世話をしたのがオフトさんでした。
そのつながりから、1982年当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部の
ヤマハ発動機(現在のジュビロ磐田)に2ヶ月間の短期コーチとしてオファーされ就任、
すると1部昇格と天皇杯優勝に貢献します。
更に今度は1984年に当時JSL2部のマツダSC(現在のサンフレッチェ広島)コーチに就任。
2年目の1985年にJSL1部昇格に導くと1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導くなど、
短期間で目覚ましい結果を出し続けます。
その後は母国オランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていましたが、
この時にオフトさんに近づく一人の男性がいました。
それがJリーグ初代チェアマンンの川渕三郎さんです。
日本協会の強化委員長だった川淵三郎さんは1982年、TV解説者を務めていた際に、
当時のヤマハの試合の変化に驚き、調べたところオフトさんの指導と判明します。
「日本人監督では限界がある」と分析しオファーするに至りました。
「プロ選手にはプロ監督、そして外国人。
オフトは日本の事情を分かっていたし、マッチすると思った」と1991年から交渉していました。
その理由について川淵さんは、オランダ1部ユトレヒトの強化責任者に就いていた
オフトさんを訪ねた際「90分間、隣に座って試合の説明をしてもらったら非常に分かりやすくてね。
日本人にはない分析力だった」と戦術眼に感服。
短期間で2つの2部チームを天皇杯優勝と1部昇格させた手腕を高く評価していたそうです。
ただ、この時代サッカーはもちろん、日本のスポーツ界で外国人プロ指導者が
代表監督にいなかった時代でした。
なぜ、海外から呼んだのかというと
川淵さんは「実績ある選手を説得できるのは外国人だけ」と語ります。
ここでいう「選手」とは代表の中心だったラモス瑠偉さん、カズこと三浦知良選手。
ブラジルでサッカーに命を懸けてきた2人は、川淵さんに「代表チームの待遇を上げてくれ」
と直談判していたそうです。
川淵さん曰く「そんなこと言ってくる選手は当時いなかった。
彼らを指導…というか牛耳るには、同じ日本人では無理だなと」感じたそうです。
そこで「小クラマー」と呼ぶオフトさんに決めたそうです。
このクラマーさんとは「日本サッカーの父」とも呼ばれる人物で、
1964年の東京オリンピックを勝ち抜くために呼ばれた監督です。
代表選手でさえバラバラだった「キック」の仕方を正確に行うには?というのを教えたり、
まだ代表選手でもできなかった「リフティング」を教えたり、
日本に初めて「テーピング」を持ち込んだ方で当時選手として対峙していたのが川淵さん。
「クラマーさんが(60年に)来た時、日本人とは月とスッポンだったから招くことに迷いはなかった」
と語っています。
一方で選手たちにはアレルギーが出はじめます。
「それまでのミーティングは、みんな監督ではなく大将のラモスに従っていた」と川淵さん。
そこに割って入ったオフトさんは「1人に頼るチームは危険」と、あえて表明。
反発したラモスさん、練習初日に指笛で呼ばれ「犬じゃないよ、冗談じゃないよ」と激高したり、
メディアにも公然と不満をぶちまけるなど自身のプライドを前面に出し対立します。
ただ、オフトさんも引きません。国立競技場の一室にラモスさんを呼び「もう代表に来なくて結構」
と突き放します。
川淵さん「もしもの時、ラモスを外せるとしたら外国人」と想定した通りの一触即発危機にも
「オフトはケンカもしたけど折り合いもつけた」と実際に外す気はないことを見抜き、
半年後には、オフト監督とラモス“コーチ”が2人で当時の代表FW高木琢也さんを
居残り指導する光景がありました。
そうです、当時は実績と実力のある選手がモノを言わせていた日本代表の改革に成功し、
いよいよ1994年のアメリカワールドカップに向け始動します。
1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した後は、夏にダイナスティカップ優勝、
秋のAFCアジアカップでは優勝に導き、日本国外で行われる国際的な大会で
日本サッカー界初となるビッグタイトルをもたらします。
この時の日本代表の頑張りはJリーグ開幕と相まって、
マスメディアが大きく取り上げ社会現象ともなっていきます。
そして、1993年に行われたワールドカップアメリカ大会アジア予選、グループFを首位で通過した日本。
アジア地区最終予選は、ドーハでの集中開催方式で行われます。
1次予選A〜F組を1位通過した6か国が総当たりのリーグ戦で対戦し、
上位2か国がワールドカップの出場権を得る方式。
日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分け、
第2戦のイラン戦を1-2で落としこの時点で6か国中最下位、
第3戦は、北朝鮮に3-0で快勝。
第4戦ではそれまでW杯、五輪のアジア予選で一度も勝利がなかった韓国と対戦、
三浦知良選手のゴールで1-0歴史的な勝利を収め、この時点で韓国に代わり首位に。
この段階で日本とサウジアラビアが出場圏内の1、2位に位置していましたが、
すでに敗退が確定していた北朝鮮を除く5位までの5か国いずれにも最終戦の結果次第で
本大会出場・敗退の可能性が残されていました。
日本とサウジアラビアは引き分け以上、韓国・イラク・イランは勝利が、本大会出場の最低条件であり、
どのチームにとっても予断を許さない状況で迎えた最終戦。
同日・同時刻キックオフで行われた最終戦(第5戦)3試合の組み合わせは
日本 - イラク、サウジアラビア - イラン、韓国 - 北朝鮮。
試合は開始5分に日本が早々と先制。
前半は1-0のまま終了。他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』、
このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜け。
後半に入るとイラクが55分にゴールへ流しこみ、1-1の同点。
他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、
日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となります。
ただ、日本は69分に、2-1と勝ち越しに成功!
イラクはその後も攻め続けますが点を与えません。
膠着状態のまま日本の勝利の時が近づく。
89分50秒、イラクは日本の左サイドからコーナーキックのチャンス。
このキック前に90分を経過してロスタイムに突入。
イラクがゴールし同点。
その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、
ボールがそのままタッチラインを割ったところで2-2の引き分けで試合終了。
ワールドカップ初出場まであと一歩のところで逃しました。
がっくりとうなだれる日本代表に近づきそっと慰めるオフトさん。
失意の結果となりましたが、日本代表が初めて「世界」を意識できた、
新たな世界を見せてくれた監督、それがオフトさんだということになるでしょう。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は庭野ほのかANが担当
「庭野ほのかの☆いっぺこトーク」
新潟県出身の庭野ほのかAN。「いっぺこと」とは、新潟県の方言で『沢山』という意味。
このコーナーを通して“沢山”リスナーの皆さんとお話ができるよう、
庭野AN目線の話題を毎週お届けしていきます!
火曜日が「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
水曜日が「あさミミ☆リサーチ」
毎週ひとつのテーマを設定。皆さんからメッセージをお寄せいただくコーナーになります。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
木曜日が「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日が「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!
2023年企画始動中!「あやほのかプレゼント企画」「家庭菜園企画」
「”あやほのか”プレゼント企画」
去年は上田さんと油野ANが収穫した、深川市旭農場さんの新米を
今回「サッポロさとらんど」さんの市民農園に応募しましたらなんと抽選で当たりました!
去年は上田さんと油野ANが収穫した、深川市旭農場さんの新米を
「あやすみほ」と銘打って、秋にリスナープレゼントいたしました。
2023年は「あやほのか」(上田あやと庭野ほのかAN)と名前も新たに、
お米の田植えから収穫までチャレンジしようじゃないかという企画です!
(今回のお米の品種は「おぼろづき」です)
お米の田植えから収穫までチャレンジしようじゃないかという企画です!
(今回のお米の品種は「おぼろづき」です)
「あさミミ!家庭菜園企画」
家庭菜園企画は、番組で野菜を育てその野菜を何かしらの形で
リスナーの皆様に還元しようじゃないかという企画です。
今回「サッポロさとらんど」さんの市民農園に応募しましたらなんと抽選で当たりました!
番組用の畑と、上田あやさん個人の畑の二つをお借りすることが出来ました。
理想はリスナープレゼントできるレベルの野菜を育てること!
ですが正直分かりません。温かい耳で見守って頂ければと思います。
ぜひ皆さんからの家庭菜園レポートもお待ちしています!
あなたの畑の情報ぜひ教えてください!
メール asamimi@stv.jp はもちろん、
ツイッターで #あさミミ家庭菜園 をつけてぜひつぶやいてください!
どちらも収穫までの長期企画ですが、ぜひお付き合いください。
-
あさミミ菜園のラディッシュ!育ちすぎ!
【緊急告知】ばんえい競馬・帯広競馬場で永井アナウンサートークショー開催決定!
「北海道ライブ あさミミ!」と「ばんえい競馬」のコラボレーション!
さらにさらに、7月1日(土)当日のばんえい競馬、
我らが“競馬おじさん”こと永井公彦アナウンサーのトークショーが帯広競馬場で開催決定!
日時:7月1日(土)午後1時30分~
場所:帯広市西13条南9丁目「帯広競馬場」2階東側特設ステージ
出演は、もちろん永井公彦アナウンサー。そしてなんと、
17年ぶりに誕生したばんえい競馬の女性ジョッキー・今井千尋騎手との
17年ぶりに誕生したばんえい競馬の女性ジョッキー・今井千尋騎手との
スペシャルトークショーも決定しました!
さらに当日、「帯広競馬場」2階東側特設ステージにお越ししくださった方には、
“キミーのメインを取れステッカー”をプレゼントいたします!!
※配布はトークショー終了後からで、数量限定です。
※配布はトークショー終了後からで、数量限定です。
さらにさらに、7月1日(土)当日のばんえい競馬、
午後6時25分発送の「第8競走」がなんと『STVラジオ あさミミ杯』として開催されます!!
トークショーではこのあさミミ杯予想など実施予定です。
初心者の方も・ファンの方も楽しめるトークショー。帯広競馬場で皆様のお越しをお待ちしています!!
初心者の方も・ファンの方も楽しめるトークショー。帯広競馬場で皆様のお越しをお待ちしています!!
あさミミリサーチ夏のSP企画「最強!ごはんのおともグランプリ〜お野菜編〜」
朝の楽しみといえば、朝ごはん。STVラジオの朝といえば、あさミミ。
あさミミといえば、「新米企画“あやほのか”」。さらにあさミミといえば、「家庭菜園」。
この連想で行き着く先、それは・・・“ごはんに一番合うお野菜レシピです!”
ごはんに合うお野菜レシピ・キングは「漬物」です。
より料理で言うと「野菜炒め」でしょうか。
このツートップを超える“ごはんに一番合うお野菜レシピ”を大募集いたします!
あなたの「ごはんに一番合う “最強のお野菜レシピ”」を教えてください!
・大前提として、お手軽レシピであること!
・ちょっとの工夫で「ごはんに一番合う・最強!」を見つけたい!
例)漬物は漬物でも何かひと工夫。細かく刻んでごはんのおとも!
例)炒め物は炒めものでも何かひと工夫。醤油の香りをプラス!
⇒皆さんのちょっとしたアイディアで「よりごはんに合う」を見つけましょう!
メール:asamimi@stv.jp FAX:011-202-7290
頂いたレシピは
6/28(水)&7/5(水)のあさミミリサーチで紹介し、最終的にグランプリを決定する予定です。
6/28(水)&7/5(水)のあさミミリサーチで紹介し、最終的にグランプリを決定する予定です。
皆様のご参加お待ちしています!
八幡淳・永井公彦が送るスペシャル企画 あの熱狂の裏側!
7月3日(月)週のあさミミは聞き逃せませんよ!
毎朝6時半ごろのコーナーあさミミアラカルト、スペシャル企画
『八幡淳・永井公彦が送るスペシャル企画 あの熱狂の裏側!』
『八幡淳・永井公彦が送るスペシャル企画 あの熱狂の裏側!』
今年もお送りします!
7月4日(火)の八幡さんコーナーは、
元ファイターズ選手で現在キッチンカー事業を手掛ける
新垣勇人さんとのインタビューをお送りします!
ファイターズに大谷翔平選手と同期入団。当時を知るファイターズの裏側と、
現役引退後の第二の人生について伺います!
7月6日(木)の永井ANコーナーは、
WBC首脳陣、実は奇跡のコラボだった!よく知る人物の証言をお届けします!
ぜび、7月3日(月)週のあさミミ!お聴き逃しなく!