今朝の放送内容 1月24日 (水)
2024年1月24日(水)
今朝の放送内容
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●富良野市内の宿泊施設で火事 性別不明の遺体発見
●岩見沢市の殺人未遂 余市町で女性死亡 死因は出血性ショック
●東京都足立区・夫婦遺体遺棄事件 男が逮捕時供述「女に頼まれて手助け」
●日銀・大規模金融緩和「維持」決定 緩和是非は“賃上げと物価上昇の好循環”確認できれば
●「金融特区」の指定を目指す 札幌市が提案書を国に提出 企業誘致や投資の推進へ
●札幌市の中学校教諭が学校の備品を盗む 窃盗の疑いで逮捕「ギャンブルに使うお金を得るために」
●能登空港 民間航空機27日から運航再開 岸田総理が表明
●仮設住宅など1万4000戸、石川県が3月末までに提供へ
●能登半島地震で相次ぐ偽情報、被災自治体とOP技術を使い実証実験へ
●自民党「政治刷新本部」が中間取りまとめ案了承 党内から反発も
●赤字8区間の存続策 先送り JR北海道・国交省 利用促進・調査は継続
●架線トラブルで新幹線停電 東北、上越、北陸の各新幹線で計283本が運休
●きのうの大相撲初場所結果 一山本4勝6敗
●Jリーグ今季日程発表 コンサドーレ開幕戦は来月24日アウェー福岡戦
●コンサドーレ沖縄キャンプ U18から昇格の18歳・出間思努選手に期待
●Bリーグ B1今季ここまで78%の試合が満員
●プロ野球・今季交流戦日程発表 ファイターズ初戦は甲子園で阪神戦
●テニス全豪オープン 車いす・小田凱人選手が日本人対決制し初戦突破
●ボクシング那須川天心選手が3連勝 相手棄権で3回TKO勝ち
●岩見沢市の殺人未遂 余市町で女性死亡 死因は出血性ショック
●東京都足立区・夫婦遺体遺棄事件 男が逮捕時供述「女に頼まれて手助け」
●日銀・大規模金融緩和「維持」決定 緩和是非は“賃上げと物価上昇の好循環”確認できれば
●「金融特区」の指定を目指す 札幌市が提案書を国に提出 企業誘致や投資の推進へ
●札幌市の中学校教諭が学校の備品を盗む 窃盗の疑いで逮捕「ギャンブルに使うお金を得るために」
●能登空港 民間航空機27日から運航再開 岸田総理が表明
●仮設住宅など1万4000戸、石川県が3月末までに提供へ
●能登半島地震で相次ぐ偽情報、被災自治体とOP技術を使い実証実験へ
●自民党「政治刷新本部」が中間取りまとめ案了承 党内から反発も
●赤字8区間の存続策 先送り JR北海道・国交省 利用促進・調査は継続
●架線トラブルで新幹線停電 東北、上越、北陸の各新幹線で計283本が運休
●きのうの大相撲初場所結果 一山本4勝6敗
●Jリーグ今季日程発表 コンサドーレ開幕戦は来月24日アウェー福岡戦
●コンサドーレ沖縄キャンプ U18から昇格の18歳・出間思努選手に期待
●Bリーグ B1今季ここまで78%の試合が満員
●プロ野球・今季交流戦日程発表 ファイターズ初戦は甲子園で阪神戦
●テニス全豪オープン 車いす・小田凱人選手が日本人対決制し初戦突破
●ボクシング那須川天心選手が3連勝 相手棄権で3回TKO勝ち
今朝の選曲
【6時台】
M「我が良き友よ/かまやつひろし」
M「我が良き友よ/かまやつひろし」
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庭野AN、療養から復帰しました!
あさミミ!アラカルト~八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 リベロの先駆者 ベッケンバウアー 」
現役時代は西ドイツ代表としてFIFAワールドカップ優勝、
監督としてもドイツを優勝に導いた「皇帝」の異名を持つベッケンバウアーさんが
先日78歳でお亡くなりになりました。
本名フランツ・アントン・ベッケンバウアーさんは
1945年9月11日旧西ドイツ生まれの元サッカー選手でありサッカー指導者で
ドイツサッカー連盟副会長や、2009年からはFCバイエルン・ミュンヘンの名誉会長も務められた
ドイツサッカー界の英雄と言っても過言ではない方です。
皇帝の愛称は、オーストリア皇帝フランツ1世と同じファーストネームであることから、
名付けられたそうです。
ベッケンバウアーさんが生まれた1945年9月と言えば
第二次世界大戦終戦後間もないいころ。
厳格な郵便局員のお父様とベッケンバウアーさんを
とてもよくかわいがるお母さまに育てられたバウアーさんは
物心ついたころから5歳上のお兄さまや近所の子供たちと共に
路地や空き地などでストリートサッカーに興じ、技術を磨いていったそうです。
その技術が認められ早くも8歳の時にSCミュンヘン1906の下部組織に入団。
本格的にサッカーを始めたそうです。
当時のポジションは左ウイングでしたが、後にセンターフォワードを任せられるようになります。
13歳になるころにはバイエルン・ミュンヘンの下部組織に入団。
ここでもセンターフォワードを務め、入団最初のシーズンで100得点近いスコアをマーク。
その才能をいかんなく発揮していきます。
14歳でギムナジウムというドイツの中等教育機関を卒業後は、
保険会社のアリアンツに就職。
社会人として生活を送る一方で引き続きバイエルンの下部組織でサッカーを学び、
18歳の頃にはバイエルン州選抜、西ドイツユース代表に選出されるようになります。
そのユース代表では監督であるデットマール・クラマーさんの下で
公私共に指導を受けたそうです。
このクラマーさんは「日本サッカーの父」ともいえる方で、
1964年の東京オリンピックで恥をかくことが無いように
代表強化を考えた際に招へいされた方で、教え子にはあの川渕三郎さんもいたという方。
当時ボールは個々人で適当に蹴っていた時代にインサイドキックを教えるなど
技術・戦術・裏付けになる理論などを日本に初めて伝えた方です。
そして、1964年、バウアーさん19歳のときにトップチームに昇格しプロ契約。
バウアーさんが昇格した当時は、クラブは中堅クラスの実力はあったものの、
最上位のブンデスリーガトップクラブとのは歴然。
更に同じ都市を本拠地とする1860ミュンヘンというライバルクラブの方が
代表選手がいることなどを理由に大衆の人気を得ていて、
実力の面でも差を付けられていた状況でした。
そこで、監督のズラトコ・チャイコフスキさんはバウアーさんら若手に
フィジカルを向上のための様々なトレーニングを課し、
選手としての成長を促しクラブの基盤を築いていきます。
すると6月のデビュー戦で左ウイングとしてスタメン出場し4-0と勝利に貢献。
9月には1964-65シーズンでーグ初得点を記録すると、
その後はポジションをフォワードから中盤に下げ、ブンデスリーガ1部昇格に貢献。
昇格初年度の1966年にはDFBポカール(ドイツのカップ戦)を制すると翌年も連覇。
1966-67シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ優勝、
1968-69シーズンにはブンデスリーガ初優勝に貢献。
これらの成績でベッケンバウアーさんの高い貢献度からこの頃ファンからは
バイエルンミュンヘンを「FCベッケンバウアー」、
イギリスのサッカージャーナリストからは「ベッケンバウアー株式会社」
と呼ばれるようにまでなります。
この活躍を代表が放っておくわけにはいきません。
1965年に西ドイツ代表に初招集。
9月、ワールドカップ・イングランド大会出場をかけたスウェーデン戦で代表デビューを飾り、
2-1で勝利に貢献。代表でもすぐにレギュラーに定着して行きます。
翌年の1966年、ワールドカップ・イングランド大会を20歳で迎えたバウアーさん。
中盤の要としてゲームコントロールすると共に得点を重ね、
大会4得点で決勝進出に貢献。
決勝戦では地元イングランドとの対戦で、延長戦の末に惜しくも2-4で敗れ
準優勝となります。
1970年代に入ると更にプレーにも脂がのり、1971-72シーズンからリーグ3連覇。
国際大会でも1972-73シーズンからUEFAチャンピオンズリーグ3連覇。
1976年のインターコンチネンタルカップ優勝など数々の実績を残します。
そしてこの頃に彼の代名詞である「リベロ」へとポジションへと
活躍の場を移していきます。
きっかけはチームメイトのケガによりデフェンダーのポジションに入ったことです。
元々リベロとはイタリアの堅守速攻サッカーの戦術でスイーパーの役割を指す言葉でした。
スイーパーとはDFラインから一列下がり相手の攻撃の芽を摘み取る役のことで、
攻撃参加はしていませんでした。
しかし、ベッケンバウアーさんはそのDFライン後方の深い位置から
効果的なパスを繰り出すなど、攻撃の起点となったり、
チャンスには前線に攻め上がって決定的なパスを通すなど
得点機に絡むというプレースタイルを披露します。
そもそもディフェンダーが攻撃参加することは無くはなかったそうなんですが、
それは「サイドバック」の話で中央に位置するディフェンダーが
攻撃に参加することは当時では異例中の異例のプレーだったようです。
ただ、これを確立できたのも少年時代に所属していた
バイエルン・ミュンヘンの下部組織での伸び伸びとプレーをさせるという方針が礎でした。
ある試合でバウアーさんはストッパーの役割を任せられていましたが、
守備だけには飽き足らず力を持て余すと、スキを見てゴール前に攻めあがり
得点を決めてしまうこともあったといいます。
こうした行動は「守備の専門家」という概念無視の行動でしたが、
後に「君のプレーは全ての指導法に反するものだが、そのまま続けなさい」と認められたことで、
ブンデスリーガになったときでもそのままプレーを続けたという逸話が残っています。
その後西ドイツ代表監督も務め1990年のワールドカップ・イタリア大会で優勝。
この時点で選手と監督双方でワールドカップ制覇を経験したのは
先に名前を挙げたブラジルのマリオ・ザガロさんに次いで2人目となりました。
サッカー選手の最高賞バロンドール受賞2回、ドイツ年間最優秀選手賞を4回。
その姿は日本のサッカー漫画「キャプテン翼」のシュナイダーくんのモデルにもなりました。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 リベロの先駆者 ベッケンバウアー 」
現役時代は西ドイツ代表としてFIFAワールドカップ優勝、
監督としてもドイツを優勝に導いた「皇帝」の異名を持つベッケンバウアーさんが
先日78歳でお亡くなりになりました。
本名フランツ・アントン・ベッケンバウアーさんは
1945年9月11日旧西ドイツ生まれの元サッカー選手でありサッカー指導者で
ドイツサッカー連盟副会長や、2009年からはFCバイエルン・ミュンヘンの名誉会長も務められた
ドイツサッカー界の英雄と言っても過言ではない方です。
皇帝の愛称は、オーストリア皇帝フランツ1世と同じファーストネームであることから、
名付けられたそうです。
ベッケンバウアーさんが生まれた1945年9月と言えば
第二次世界大戦終戦後間もないいころ。
厳格な郵便局員のお父様とベッケンバウアーさんを
とてもよくかわいがるお母さまに育てられたバウアーさんは
物心ついたころから5歳上のお兄さまや近所の子供たちと共に
路地や空き地などでストリートサッカーに興じ、技術を磨いていったそうです。
その技術が認められ早くも8歳の時にSCミュンヘン1906の下部組織に入団。
本格的にサッカーを始めたそうです。
当時のポジションは左ウイングでしたが、後にセンターフォワードを任せられるようになります。
13歳になるころにはバイエルン・ミュンヘンの下部組織に入団。
ここでもセンターフォワードを務め、入団最初のシーズンで100得点近いスコアをマーク。
その才能をいかんなく発揮していきます。
14歳でギムナジウムというドイツの中等教育機関を卒業後は、
保険会社のアリアンツに就職。
社会人として生活を送る一方で引き続きバイエルンの下部組織でサッカーを学び、
18歳の頃にはバイエルン州選抜、西ドイツユース代表に選出されるようになります。
そのユース代表では監督であるデットマール・クラマーさんの下で
公私共に指導を受けたそうです。
このクラマーさんは「日本サッカーの父」ともいえる方で、
1964年の東京オリンピックで恥をかくことが無いように
代表強化を考えた際に招へいされた方で、教え子にはあの川渕三郎さんもいたという方。
当時ボールは個々人で適当に蹴っていた時代にインサイドキックを教えるなど
技術・戦術・裏付けになる理論などを日本に初めて伝えた方です。
そして、1964年、バウアーさん19歳のときにトップチームに昇格しプロ契約。
バウアーさんが昇格した当時は、クラブは中堅クラスの実力はあったものの、
最上位のブンデスリーガトップクラブとのは歴然。
更に同じ都市を本拠地とする1860ミュンヘンというライバルクラブの方が
代表選手がいることなどを理由に大衆の人気を得ていて、
実力の面でも差を付けられていた状況でした。
そこで、監督のズラトコ・チャイコフスキさんはバウアーさんら若手に
フィジカルを向上のための様々なトレーニングを課し、
選手としての成長を促しクラブの基盤を築いていきます。
すると6月のデビュー戦で左ウイングとしてスタメン出場し4-0と勝利に貢献。
9月には1964-65シーズンでーグ初得点を記録すると、
その後はポジションをフォワードから中盤に下げ、ブンデスリーガ1部昇格に貢献。
昇格初年度の1966年にはDFBポカール(ドイツのカップ戦)を制すると翌年も連覇。
1966-67シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ優勝、
1968-69シーズンにはブンデスリーガ初優勝に貢献。
これらの成績でベッケンバウアーさんの高い貢献度からこの頃ファンからは
バイエルンミュンヘンを「FCベッケンバウアー」、
イギリスのサッカージャーナリストからは「ベッケンバウアー株式会社」
と呼ばれるようにまでなります。
この活躍を代表が放っておくわけにはいきません。
1965年に西ドイツ代表に初招集。
9月、ワールドカップ・イングランド大会出場をかけたスウェーデン戦で代表デビューを飾り、
2-1で勝利に貢献。代表でもすぐにレギュラーに定着して行きます。
翌年の1966年、ワールドカップ・イングランド大会を20歳で迎えたバウアーさん。
中盤の要としてゲームコントロールすると共に得点を重ね、
大会4得点で決勝進出に貢献。
決勝戦では地元イングランドとの対戦で、延長戦の末に惜しくも2-4で敗れ
準優勝となります。
1970年代に入ると更にプレーにも脂がのり、1971-72シーズンからリーグ3連覇。
国際大会でも1972-73シーズンからUEFAチャンピオンズリーグ3連覇。
1976年のインターコンチネンタルカップ優勝など数々の実績を残します。
そしてこの頃に彼の代名詞である「リベロ」へとポジションへと
活躍の場を移していきます。
きっかけはチームメイトのケガによりデフェンダーのポジションに入ったことです。
元々リベロとはイタリアの堅守速攻サッカーの戦術でスイーパーの役割を指す言葉でした。
スイーパーとはDFラインから一列下がり相手の攻撃の芽を摘み取る役のことで、
攻撃参加はしていませんでした。
しかし、ベッケンバウアーさんはそのDFライン後方の深い位置から
効果的なパスを繰り出すなど、攻撃の起点となったり、
チャンスには前線に攻め上がって決定的なパスを通すなど
得点機に絡むというプレースタイルを披露します。
そもそもディフェンダーが攻撃参加することは無くはなかったそうなんですが、
それは「サイドバック」の話で中央に位置するディフェンダーが
攻撃に参加することは当時では異例中の異例のプレーだったようです。
ただ、これを確立できたのも少年時代に所属していた
バイエルン・ミュンヘンの下部組織での伸び伸びとプレーをさせるという方針が礎でした。
ある試合でバウアーさんはストッパーの役割を任せられていましたが、
守備だけには飽き足らず力を持て余すと、スキを見てゴール前に攻めあがり
得点を決めてしまうこともあったといいます。
こうした行動は「守備の専門家」という概念無視の行動でしたが、
後に「君のプレーは全ての指導法に反するものだが、そのまま続けなさい」と認められたことで、
ブンデスリーガになったときでもそのままプレーを続けたという逸話が残っています。
その後西ドイツ代表監督も務め1990年のワールドカップ・イタリア大会で優勝。
この時点で選手と監督双方でワールドカップ制覇を経験したのは
先に名前を挙げたブラジルのマリオ・ザガロさんに次いで2人目となりました。
サッカー選手の最高賞バロンドール受賞2回、ドイツ年間最優秀選手賞を4回。
その姿は日本のサッカー漫画「キャプテン翼」のシュナイダーくんのモデルにもなりました。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は「あさミミ流!#(ハッシュタグ)今週の献立」
週の始まり月曜日は、1週間の献立・レシピをリスナーの皆さんのアイディアの下
“あさミミ流”にご紹介していきます!
火曜日は「庭野ほのかの☆いっぺこトーク」
新潟県出身の庭野ほのかAN。「いっぺこと」とは、新潟県の方言で『沢山』という意味。
このコーナーを通して“沢山”リスナーの皆さんとお話ができるよう、
庭野AN目線の話題を毎週お届けしていきます!
水曜日は「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
木曜火は「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日は「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!