今朝の放送内容 6月7日(火)
2022年6月7日(火)
6月7日(火)
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●北広島でタケノコ採りの男性が遭難 その後無事救助
●伊達で死体遺棄事件
●北朝鮮への対抗措置 米韓がミサイル発射
●貝殻島コンブ漁 今月中旬か
●はやぶさ2の砂にアミノ酸
●日銀・黒田総裁「金融緩和を継続」
●東名あおり運転 懲役18年判決
●ゼレンスキー大統領 東部・ドンバス地方を視察
●道内感染者649人 全国9106人
●砂川市飲酒運転死傷事故 きのうで7年
●北朝鮮 核実験準備か
●5歳児“暴行死”住宅から別の白骨遺体 埼玉県本庄市
●サッカー国際親善試合 日本がブラジルに0-1 善戦も課題
●室伏スポーツ庁長官 デフリンピック招致に支持
公立中学校部活動の地域移行の提言まとまる
●世界バンタム級王座統一戦が今夜開催 井上尚弥選手出場
●スポーツ賭博に解禁案 八百長や依存症に懸念も
●レバンガU18・内藤輝悠選手 U16日本代表初選抜
●米女子バスケWNBA ミスティックス町田瑠唯選手が自己最多9アシスト
●元コンサ・サッカー日本代表 吉原宏太氏が余市町町長選出馬へ
●伊達で死体遺棄事件
●北朝鮮への対抗措置 米韓がミサイル発射
●貝殻島コンブ漁 今月中旬か
●はやぶさ2の砂にアミノ酸
●日銀・黒田総裁「金融緩和を継続」
●東名あおり運転 懲役18年判決
●ゼレンスキー大統領 東部・ドンバス地方を視察
●道内感染者649人 全国9106人
●砂川市飲酒運転死傷事故 きのうで7年
●北朝鮮 核実験準備か
●5歳児“暴行死”住宅から別の白骨遺体 埼玉県本庄市
●サッカー国際親善試合 日本がブラジルに0-1 善戦も課題
●室伏スポーツ庁長官 デフリンピック招致に支持
公立中学校部活動の地域移行の提言まとまる
●世界バンタム級王座統一戦が今夜開催 井上尚弥選手出場
●スポーツ賭博に解禁案 八百長や依存症に懸念も
●レバンガU18・内藤輝悠選手 U16日本代表初選抜
●米女子バスケWNBA ミスティックス町田瑠唯選手が自己最多9アシスト
●元コンサ・サッカー日本代表 吉原宏太氏が余市町町長選出馬へ
今朝の選曲
【6時台】
M「時代遅れのRock'n' Roll Band /桑田佳祐feat.佐野元春,世良公則.Char,野口五郎」
【7時台】
M「1999 /プリンス」
M「時代遅れのRock'n' Roll Band /桑田佳祐feat.佐野元春,世良公則.Char,野口五郎」
【7時台】
M「1999 /プリンス」
あさミミ!アラカルト〜八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は『 日本の自動車レースの夜明け 多摩川スピードウェイ 』
1936年6月7日「多摩川スピードウェイで第1回全国自動車競走大会が開催」
自動車と言えば近年、その性能は飛躍的に高まってきて、
例えば先進機能の一つ、自動運転技術は各メーカーとも開発にしのぎを削っていて、
レベル1の「運転支援」では前の車を追従する「アダプティブクルーズコントロール」、
それから車線内の走行を維持するレーンキープコントロールなどが備わっていて、
更に「衝突被害軽減ブレーキ」に関しては既に去年の11月から新車に関しては義務化されるなど、
安全性能は飛躍的に高まってきています。
実はこれらを可能にしているのが、車に搭載された各センサーの働きによるものですが、
このセンサーこそ自動車レースの最高峰ともいわれるF1レースに
採用されたことがきっかけで生まれた技術です。
その他にも、その優れた耐久性と軽さで市販車のボディに採用されている「カーボンファイバー」、
スピード性能を増して改良された燃焼効率が得られることでおなじみの「DOHCエンジン」、
それから冬道で活躍する機会の多いタイヤの空転防止機能の「トラクションコントロールシステム」などなど、
数えたらきりがないほど、自動車レースの技術は市販車に転用されて、
より安全で燃費効率のいいエコな車が開発されてきました。
そんな市販車の開発に欠かすことができない自動車レースが
日本で最初に行われたのが86年前の今日(6月7日)というわけです。
そのレースが行われた多摩川スピードウェイは
1936年5月9日、場所は東急東横線と多摩川が交わる付近の神奈川県川崎市側の河川敷に開業します。
1910年代から、日本国内でも富裕層や外国人により輸入自動車によるレースが行われてきましたが、
常設サーキットがないために、目黒競馬場や洲崎埋立地、代々木練兵場や立川飛行場で開催するなど
開催場所の確保に苦労していました。
この状況を打開するため、アメリカでモータースポーツ活動を行っていた
藤本軍次さんが常設サーキットの開場を計画、
1930年代初頭に報知新聞社とともに「日本スピードウェイ協会」を設立して、
サーキット用地の確保に奔走します。
やがて、東京横浜電鉄が用地の提供と、総工費10万円のうち7万円を出資。
さらに三菱グループ株主の飯田正美さんが3万円を寄付し、
日本及びアジア初の常設サーキットとして、1周1200m、コース幅20mのオーバルコース、
南側の堤防土手に約300mの観戦スタンドが作られ、開業しました。
そして、6月7日、日本自動車競走倶楽部を主催者として、
日本初の本格的な自動車レースとなったこの日、開会式には大日本帝国陸軍の将官が列席し、
多摩川沿いという、都心から遠く離れた地での開催にもかかわらず
1万人以上の観客を集めるなど大きな注目を集めたそうです。
この大会は「ゼネラルモーターズカップ」、「フォードカップ」、「国産小型」、
「ボッシュカップ」、「商工大臣カップ」、「優勝カップ」と6つのクラス分けがされ、
当時横浜市にある工場で生産されていたフォードや、自動車愛好家の三井高公男爵が輸入した
ブガッティやベントレーなどの様々な外国車のみならず、
カーチスの航空機エンジンを搭載した改造車や、日産自動車などの日本の大手自動車会社も参戦したそうです。
中でも注目はゼネラルモーターズカップに出場したフォード車を改造した車両「濱松号」。
レースではトップを独走していて優勝目前まで行くんですが、
ゴール直前に周回遅れのマシンを避けようとして横転し、無念のリタイアをしてしまします。
この車両には兄弟が乗車し運転していましたが、助手席の弟さんは重傷、
運転していたお兄さんも骨折、顔を怪我して視力低下をおこしてしまいます。
実はこの兄弟の兄こそ、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎さんでした。
尚、そのホンダブランドのエンジンはその後にF1レースに参戦、
1980年代後半にはアイルトン・セナ、アラン・プロストらがホンダエンジンを搭載した車両で
チャンピオンになるなど、F1界を席巻する企業にまでなるんですから非常に感慨深いものがあります。
その他、国産自動車部門で優勝したのは当時三井物産の傘下にあった
オオタ自動車工業が手作業で組み上げたレース専用マシン「オオタ号」。
一方敗れたのは日産自動車のダットサンだったので、当日、スタンドからレースを観戦していた
日産自動車の鮎川義介社長はこの敗北に激怒して、3ヶ月後の第2回大会で
雪辱を晴らしたというエピソードも残っているそうです。
その後、第3回は1937年5月16日に。第4回は1938年4月17日に開催されますが、
折しも前年の7月7日に盧溝橋事件をきっかけに勃発した日中戦争の激化を受け施行された、
物資動員計画に伴うガソリンの配給制への移行、”幻“と称される東京オリンピック返上などが議論される中、
第4回大会を最後に多摩川スピードウェイでの自動車レースは行われなくなりました。
戦後、多摩川スピードウェイではオートバイの草レース開催や
オートレース競技場としての利活用などが協議されてきたようですが、
首都圏からの流入人口が増加し、周辺地域に住人が増えてきて、
騒音問題が取り沙汰されるようになり、1950年代初頭には廃止が決まります。
次なる常設サーキットは約10年後、あの6月7日に多摩川スピードウェイで行われた
第1回レースに出場した本田宗一郎さんが、三重県鈴鹿市に鈴鹿サーキットをオープンさせ、
モータースポーツの中心へと発展させていきます。
さて、現在の多摩川スピードウェイ跡地は堤防のスロープに沿って作られた
観戦スタンドが残り、2016年5月に80周年を記念して埋め込まれたプレートがあって、
レース場部分は今は軟式野球場などが点在しているようですが・・
実は多摩川スピードウェイが取り壊された約10年後の1961年から1996年までは
プロ野球球団、当時の東映フライヤーズ、
現在の北海道日本ハムファイターズの練習場施設がありました。
1997年に現在の千葉県鎌ケ谷ファイターズタウンができるまで使用されていたようなんですが、
晩年の多摩川練習場は「日本一」と言われていた施設だったと球団OBやベテラン職員の方からは聞いています。
行ったときにその理由がわかると言われた多摩川グランドは、
「日本一汚い練習場」ということで有名だったようです。
日本のモータースポーツの夜明けとプロ野球若手選手の汗と努力を見守ってきた多摩川沿いの土地は、
今静かに市民の憩いの場としてたたずんでいます。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は『 日本の自動車レースの夜明け 多摩川スピードウェイ 』
1936年6月7日「多摩川スピードウェイで第1回全国自動車競走大会が開催」
自動車と言えば近年、その性能は飛躍的に高まってきて、
例えば先進機能の一つ、自動運転技術は各メーカーとも開発にしのぎを削っていて、
レベル1の「運転支援」では前の車を追従する「アダプティブクルーズコントロール」、
それから車線内の走行を維持するレーンキープコントロールなどが備わっていて、
更に「衝突被害軽減ブレーキ」に関しては既に去年の11月から新車に関しては義務化されるなど、
安全性能は飛躍的に高まってきています。
実はこれらを可能にしているのが、車に搭載された各センサーの働きによるものですが、
このセンサーこそ自動車レースの最高峰ともいわれるF1レースに
採用されたことがきっかけで生まれた技術です。
その他にも、その優れた耐久性と軽さで市販車のボディに採用されている「カーボンファイバー」、
スピード性能を増して改良された燃焼効率が得られることでおなじみの「DOHCエンジン」、
それから冬道で活躍する機会の多いタイヤの空転防止機能の「トラクションコントロールシステム」などなど、
数えたらきりがないほど、自動車レースの技術は市販車に転用されて、
より安全で燃費効率のいいエコな車が開発されてきました。
そんな市販車の開発に欠かすことができない自動車レースが
日本で最初に行われたのが86年前の今日(6月7日)というわけです。
そのレースが行われた多摩川スピードウェイは
1936年5月9日、場所は東急東横線と多摩川が交わる付近の神奈川県川崎市側の河川敷に開業します。
1910年代から、日本国内でも富裕層や外国人により輸入自動車によるレースが行われてきましたが、
常設サーキットがないために、目黒競馬場や洲崎埋立地、代々木練兵場や立川飛行場で開催するなど
開催場所の確保に苦労していました。
この状況を打開するため、アメリカでモータースポーツ活動を行っていた
藤本軍次さんが常設サーキットの開場を計画、
1930年代初頭に報知新聞社とともに「日本スピードウェイ協会」を設立して、
サーキット用地の確保に奔走します。
やがて、東京横浜電鉄が用地の提供と、総工費10万円のうち7万円を出資。
さらに三菱グループ株主の飯田正美さんが3万円を寄付し、
日本及びアジア初の常設サーキットとして、1周1200m、コース幅20mのオーバルコース、
南側の堤防土手に約300mの観戦スタンドが作られ、開業しました。
そして、6月7日、日本自動車競走倶楽部を主催者として、
日本初の本格的な自動車レースとなったこの日、開会式には大日本帝国陸軍の将官が列席し、
多摩川沿いという、都心から遠く離れた地での開催にもかかわらず
1万人以上の観客を集めるなど大きな注目を集めたそうです。
この大会は「ゼネラルモーターズカップ」、「フォードカップ」、「国産小型」、
「ボッシュカップ」、「商工大臣カップ」、「優勝カップ」と6つのクラス分けがされ、
当時横浜市にある工場で生産されていたフォードや、自動車愛好家の三井高公男爵が輸入した
ブガッティやベントレーなどの様々な外国車のみならず、
カーチスの航空機エンジンを搭載した改造車や、日産自動車などの日本の大手自動車会社も参戦したそうです。
中でも注目はゼネラルモーターズカップに出場したフォード車を改造した車両「濱松号」。
レースではトップを独走していて優勝目前まで行くんですが、
ゴール直前に周回遅れのマシンを避けようとして横転し、無念のリタイアをしてしまします。
この車両には兄弟が乗車し運転していましたが、助手席の弟さんは重傷、
運転していたお兄さんも骨折、顔を怪我して視力低下をおこしてしまいます。
実はこの兄弟の兄こそ、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎さんでした。
尚、そのホンダブランドのエンジンはその後にF1レースに参戦、
1980年代後半にはアイルトン・セナ、アラン・プロストらがホンダエンジンを搭載した車両で
チャンピオンになるなど、F1界を席巻する企業にまでなるんですから非常に感慨深いものがあります。
その他、国産自動車部門で優勝したのは当時三井物産の傘下にあった
オオタ自動車工業が手作業で組み上げたレース専用マシン「オオタ号」。
一方敗れたのは日産自動車のダットサンだったので、当日、スタンドからレースを観戦していた
日産自動車の鮎川義介社長はこの敗北に激怒して、3ヶ月後の第2回大会で
雪辱を晴らしたというエピソードも残っているそうです。
その後、第3回は1937年5月16日に。第4回は1938年4月17日に開催されますが、
折しも前年の7月7日に盧溝橋事件をきっかけに勃発した日中戦争の激化を受け施行された、
物資動員計画に伴うガソリンの配給制への移行、”幻“と称される東京オリンピック返上などが議論される中、
第4回大会を最後に多摩川スピードウェイでの自動車レースは行われなくなりました。
戦後、多摩川スピードウェイではオートバイの草レース開催や
オートレース競技場としての利活用などが協議されてきたようですが、
首都圏からの流入人口が増加し、周辺地域に住人が増えてきて、
騒音問題が取り沙汰されるようになり、1950年代初頭には廃止が決まります。
次なる常設サーキットは約10年後、あの6月7日に多摩川スピードウェイで行われた
第1回レースに出場した本田宗一郎さんが、三重県鈴鹿市に鈴鹿サーキットをオープンさせ、
モータースポーツの中心へと発展させていきます。
さて、現在の多摩川スピードウェイ跡地は堤防のスロープに沿って作られた
観戦スタンドが残り、2016年5月に80周年を記念して埋め込まれたプレートがあって、
レース場部分は今は軟式野球場などが点在しているようですが・・
実は多摩川スピードウェイが取り壊された約10年後の1961年から1996年までは
プロ野球球団、当時の東映フライヤーズ、
現在の北海道日本ハムファイターズの練習場施設がありました。
1997年に現在の千葉県鎌ケ谷ファイターズタウンができるまで使用されていたようなんですが、
晩年の多摩川練習場は「日本一」と言われていた施設だったと球団OBやベテラン職員の方からは聞いています。
行ったときにその理由がわかると言われた多摩川グランドは、
「日本一汚い練習場」ということで有名だったようです。
日本のモータースポーツの夜明けとプロ野球若手選手の汗と努力を見守ってきた多摩川沿いの土地は、
今静かに市民の憩いの場としてたたずんでいます。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は油野純帆ANが担当
「ローカル情報発信!あぶらのチェック」
北海道生活が2年目の油野AN。179市町村のことをもっと知りたい!という
好奇心から、その週にピッタリのご当地情報を紹介する超ローカルコーナーです。
火曜日が「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
水曜日が「あさミミ☆リサーチ」!ですが、少しマイナーチェンジします。
毎週ひとつのテーマを設定。皆さんからメッセージをお寄せいただくコーナーになります。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
木曜日が「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日が「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!